公開質問状への回答 - 生命保険のカラクリ2009年10月16日

ボストンに留学してすぐに、帰国する日本人から自動車を買った。車検手続きをするために日本人がいる保険代理店に行って、そこで合わせて自動車保険に加入した。

驚いたのは、保険料が住んでいる地域によって、丸っきり異なったこと。特にボストン市内は、安い地域と比べて数倍違ったように記憶している。一本道を隔てた隣の市でも、保険料が全然違った。

米国では交通事故だけでなく、自動車のガラスを割った盗難事故が非常に多い。だから、犯罪の発生率が違う地域で保険料が全然異なる、とのことだった。

これに加えて、走行距離や過去の事故歴も問題となる。日本人の担当者がいてくれたので、日本から無事故証明書を取り寄せて、それで安い保険料で手続きをしてもらうことができた。

保険だけでなく金融全般でそうだが(たとえば住宅ローンを想定してみよう)、「高リスク=高料率、低リスク=低料率」というのはリスクの引き受けを生業とする金融業の基本である。

逆に、そうせずに一律で料率を設定することは、リスク管理の観点(高リスク者ばかりが集まる)か、競争力ないし超過収益(必要以上に高い利率を設定する)の二つの点から望ましくない。

突き詰めていけば、原因と結果の因果関係を説明する統計データの裏づけがある限り、また、業務の安定的な運営上可能な限り、リスクの区分はできるだけ細かくしていくことが望ましい。究極的には、ひとりひとり、保険料が違ってもいいはずだ。

実際、米国では自動車保険の料率をさらに細分化すべく、保険会社が自動車に端末を設置し、詳細の走行記録(発進時のスピードの出し方など)を取り、事故率の関連を調べようとしている。

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生命保険(医療保険も含む。以下、同じ)についても、保険の金融的な側面から考えると、リスクに応じた料率設定が当然になる。喫煙・非喫煙の有無で料率が違う商品を、死亡保険についてはわが国の保険会社も販売している。
http://www.hoken-erabi.net/seihoshohin/goods/kenkotai01.htm

医療保険についてはまだほとんど存在しない。しかし、健康について努力をしている人がそうでない人よりも安い保険料ですむことはフェアとも考えられるし、そういう制度を設けることによって健康増進がかえって進む、とも考えられる。僕らのところにも、何社もの健康関連事業に取り組まれている会社から、相談が寄せられている。また、協会けんぽでは前月から都道府県別の保険料への移行を開始ししている。
http://www.kyoukaikenpo.or.jp/8,12390,131.html

そして、遺伝子情報から各人の死亡リスクや疾病リスクも分かる時代が来れば、ひとりひとりについて個別の保険料を設定することも考えられる。

この考えに対しては、自動車保険などの原理を生命保険に当てはめるべきではない、との反論が考えられる。自動車保険とは違って、病気リスクを高める要因のなかには、先天的で本人がどうしようもないものも多く含まれるからだ。(遺伝子情報を例としてあげてしまうと生命倫理に関する議論にまで発展してしまいかねないが、本稿での趣旨とはずれるので捨象する。)

しかし、保険の原理原則から考えると、本人がコントロール可能なリスク要因か否かは料率設定に関係ない。信用リスクが低い人は、それが自分の責任であるか否かを問わず、高い金利払いを余儀なくされるのであるのと同様である。

生命保険についてリスク細分を推し進めるのが適当でないのは、これらが金融としての保険の側面だけでなく、社会保障としての側面を大きく持っていることによる。

社会保障は、憲法第25条で唄われている国民の権利であり、国家の義務である:

第25条
1. すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2. 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

民間生命保険は、このような憲法の趣旨を体現して国が運営する遺族年金・健康保険を補完するものなのである。

公的な保険は金融としての保険の側面よりも社会保障が主軸であるから、リスク細分どころか、「逆・リスク細分」ともいえる「リスクの再分配」が行われている。

つまり、年齢や健康状態によっても保険料率は変わらない。あるいは高齢者の方がもっと安い。実質的には高齢者から若い人へ、また病気の人から健康な人へリスクが移転されているのである。(これに所得比例も加わり、所得の再分配も行われている。)これは、「全員加入」を前提としているため、成り立つ方式である。

これに加えて、生命保険(特に医療保険)については「加入できる」というアクセスが大変重要になる。国民皆保険が存在しない米国では、保険料が払えない無保険者が4,600万人ものぼり、重症の患者が病院で拒否して死亡する事例なども相次ぎ、大きな社会問題になっている。

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では、民間生命保険では、どこまでリスクを細かく分けていくべきだろうか。

この問いは結局のところ、「生命保険の金融的側面と社会保障的側面をどこでバランス取るか」という問いにほかならない。

その答えは、公的な生命保険がどの程度の役割を果たしており、それを補完する民間生命保険がどの程度の役割を果たさなければならないのか、ということに依る。

たとえば、遺族年金と健康保険(公的医療保険)のカバー率が100%に近いとしよう。遺族に対しては生活するに十分な額の年金が支払われ、医療費の自己負担はゼロ。

このような制度のもとでも、民間の生命保険は「もっと欲しい」層に向けて商品を提供することが考えられる(5億円死亡保険が欲しい、など)。この場合、民間の生命保険には社会保障の役割は相当程度薄まっているのだから、金融的側面を全面的に強調し、ひとりひとり保険料が違ってもよいと考えられる。

では、わが国では公・民の割合はどうなっているのだろう。

手元には少し古いデータしかないのだが、

・ 死亡保障: 公 4.6兆円、民 3.4兆円
・ 医療保障: 公 14.8兆円(保険医療)、民 8,200億円

となっている(2001年度。新著「生命保険のカラクリ」p.117でも引用した)。これを見るとわかるのは、死亡保障では、民が公に近い重要な役割を占めることである。これに対して医療保険は公がメインであり、民は小さく補完するに過ぎない。

とすれば、この割合を所与のものとすると、結論は明確である。死亡保障については社会保障的な側面が強いので、あまりリスク細分を進めることは望ましくない(せめて喫煙、非喫煙程度か)。

これに対して、いくらかラグジュアリー(経済的ではなく、必ずしも必要のない心理的な安心を買っているという意味で)に近い医療保障については、社会保障の側面が低いので、統計上、そして引受実務上可能な限り、リスク細分を進めるべきなのである。究極的には、一人ひとり保険料が変わってもよいと考える。

この場合、たとえば先天的に病気の人は高額の保険料を払わない限り医療保険に入れない、というアクセスが問題になるが、このような人への「リスク・所得の再分配」は、(少なくとも現状の枠組みでは)民間生保が行うことではなく、公がやるべきことなのである。

もっとも、この議論は、医療保険においても民間の割合が高くなっていったら変わってきて、死亡保障の結論に近づいてくるものと考える。

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以上が、新著「生命保険のカラクリ」に関する「書評兼公開質問状」として小飼弾氏から頂いた質問、「生命保険においてどこまでリスク細分を進めるべきか?」に対する回答である。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51307506.html

小飼さん、ご紹介ありがとうございました!

新著、いよいよ明日(10月17日)から大手書店を中心に発売開始です。小さい本屋さんは、もう少し後になるかも、とのこと。文春のサイトで序章が立ち読みできるようなので、ぜひ!
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784166607235